昭和48年10月18日 月次祭
先ほど前講に末永先生がお話を致しておりました。我情我欲を言う程詰らん馬鹿らしい事はない。私はそれを聞かせて頂いて、素晴らしいなぁ七年間一生懸命に、合楽でまぁ言うならば、なんと申しましょうかね。もう自分の自由と言う物を、ある意味に束縛した生活、それが修行者の生活なんですけれども。そういう信心をさせて頂いて、言うなら七年振りにそれが分かった。もう最近それをしみじみ感じます。我情我欲を言うほど馬鹿らしい事はないと言う事。
私はあのそれを聞かせて頂いて思う事はね。あの信心の本当の、真の信心の第一歩だと思うですね。ですから此処まで来なければ、真の信心とは言えないです。我情我欲を離れてせんと、真に道が第一分からん。また神様のおかげの中に、生かされて生きておると云う事が、理屈で分かっても実感として感じられないです。我情我欲を言うほど詰らん事はない、馬鹿らしい事は無いのだけれども、その我情我欲の為に修行をして、我情我欲のために一生懸命、神様を拝んで来たと言う事なんです。
けれども此処までで終わる人がもう、先ずは殆んどでしょう。けれどもね、流石にその人が助かると言う事の為に、あの若さをもって所謂、御道の為に挺身しておる。ね。人が助かる事さえ出来ればというご誠心を頂いての修行ですから、それがまぁ、七年振りにでも分かって来る。とてもとても此処まで分かるには、大変な事だと思うです。我情我欲を言う程馬鹿らしい事は無い、詰らない事はないと。ね。
神様は私共の、その我情我欲を、まぁ聞いて下さり、又は聞いて下さら無かったり、ね。それで一生を終わってしまう。一生の信心をそれで終わったんでは、折角の所謂、我が身は神徳のなかに生かされてあると言う、本当の喜びは頂けない。ね。あれもおかげであった、是もおかげであったと分かる様になると、本当の信者じゃと仰る。ね。此処からなんです。あれもおかげであった、なら先生が今、思いよる事でしょうけれども、七年間修行をさせて頂いてです。ね。
様々ななら我情我欲の為の修行もさせて頂いたけれども。それも七年目、今日に至って初めてあれも無駄ではなかったんだと分かった時にです。あれもおかげであった。いやぁほんにもう馬鹿らしいと、今日言ってましたけれども、その馬鹿らしい修行がです、馬鹿らしい物では無かった。そこを通って初めて分かったんだという時に、その七年間の修行が生きて来る訳なんです。ね。
だからあれもおかげであったと分かり、だから是からも、だからおかげより他にはない事が確信出来るのです。あれもおかげであった、又今日只今ふんまえておる所の問題も、それが例えば難儀の様相を呈しておりましても、それは難儀ではないんだ、おかげであるんだと分かる。あれもおかげであった、是もおかげであった。又是からもおかげであると分かる。ね。
そこに成程本当な信者じゃと、教祖様が仰ると言う事はです。本当なおかげが受けられると言う事なんですね。お互い一つ、本当なおかげを目指しましょうやね。折角なのですから、折角金光様のご信心をするのですからね。本当のおかげを頂きたい。我情我欲一杯で、その我情の為に、地団太踏む様な修行もさせて頂いて、おかげも頂きますけれどもね。それはほんなら必ずしも、願った通りのおかげを頂くと言う事はない。おかげを受けたり受けられなかったり。
それは今日の御道の新聞に、大阪の昔のある偉い先生が仰っておられる事が、ちょっと載っておった。この神様はね、あぁいう悪い奴でもおかげを受けておるとは、どう言う訳ですかと、ある先生が聞いた。この神様はね、悪い奴じゃけんおかげはやらんと言う様な、小さい神様じゃないぞと仰ったそうですね。教祖様はね、其処ん所をね。信心しておかげを受けるのは、人の良いのと悪いのは別ものじゃと仰った。
けれどもね、そういうおかげは、長続きはせんと仰ったね。ほんなら我情我欲を一杯、または信心しよって、あんなこっで良かだろうかと言う様なものでも、矢張りお取次ぎを頂いてお願いをすれば、おかげを頂くんだ。この神様はそんな小さい。あん奴はあんな悪い事しよるから、おかげはやらんという様な神様じゃない。願えばおかげを下さるんだけれど、それでは長くは続かん、そう言うおかげばかりは続かないと言うておられる。私もそうだと思うです。ね。
だからこの神様はその様に言うなら、大きい神様ですけれども、その大きい神様の心が分かると言う事が信心なんです。ほんなら心も私共は限りない大きな神様ですからです。中々私共は掴みえませんけれどもです、ね。末永先生は七年目にして、初めて我情我欲を言うなら、我情我欲を言うたら真の道は分からん。真の道が分からなければ、わが身は神徳のなかに生かされてある喜びすらも感じる事は出来んぞと。
ただ有難い有難いと言うのは、おかげを頂いてね。ご利益を頂いて、自分の思いになった事だけが有難い、有難いと言うのであって、そのおかげを差し引いたら、あぁ是程信心するのに、どうしてと言う事になって来るのですね。あれもおかげである、是もおかげであると分かる事の為にもです。本気で一つ我情我欲を中々、しかしね七年間一生懸命修行させて頂いて、ようやく七年振りに分かったち言うんですから、見やすい事とは思われませんですね。それはね成程おかげは頂くです。
今日その大阪の、昔の先生が仰ったと言う、それもそうです。あんな悪い奴が信心して、おかげをどんどん頂きよる。商売が繁盛しよる。あらどう言う訳ですかちね。この神様はそげな小さい神様じゃない。お願いをすりゃおかげをやる神様。下さる神様だと仰った。けれどもそう言うおかげは続かんと言うのは、此の世では頂き続けてもです、あの世までは続かんと言う事なんです。
私はそう思うですね。私共はあの世に持って行ける物でなからなければいけない。この世にも残して置ける物でなからなければいけない。ね。ちょっと私、こう風邪気味ですから、真綿のチョッキを着てるんです下着を。それをこの着付ける時、慌てて着よったもんですから忘れとった。そしたらもう何か、背中がずんずんする。それで私又すぐ下に着せて頂いた。着せて頂いたらもう途端に背中がぽやぽやして来る。もうぽかぽかと温まって来る。ね。
どんなにそれはその、真綿から発しておるのじゃないです。この身体から発しておるのです。そういう熱をね。この身体がその暖かみを持っておるんですね。所がそれに掛けられたものが真綿だったから、真綿にその暖かみが移って行くのです。是が何か冷たい物、ね。ビニールの様な物であったり、鉄の様な物であったら、温もりはしません。いかに真綿の様な、柔らかい心と言う物が必要かと言う事が分かるでしょう。天地の親神様が、此処にたぎる様な思いを持って御座る。
そのたぎるような思いを持って御座っても、頭だけで言ったり、理屈だけで言ったりね。言うなら暖かいとは、柔らかいとは、正反対の物を是に持って来て、是にその移り香すら移らないと思うです。勿論この暖かみが、是に伝わると言う様な事は出来ません。是が道理です。夕べも合楽会で、何か黒豆を作っとる、青豆を作っとると話が出ました時に、私がその話を途中から取って、私が話すんですよ。
不思議でしょうがてね。黒豆の種を撒きゃ本当に、真っ黒などうしてこげな真っ黒な色の着いた豆が出来るじゃろうかと言うごたる、真っ黒い豆が出来るでしょうが。真っ青の最近はその、真っ青のその豆があるそうですね。その豆を蒔くとやっぱり真っ青のいわば豆が実るじゃないですか。もうこげな不思議な事はないですよ。ね。それを当たり前の様に思うておる所にです。神様が分かってない証拠なんです。こんな黒い色を何処の誰が付けただろうか。こんな青い色を誰がこんなに着色しただろう。
そりゃあぁた青い種ば蒔いたけんですたい。そら黒か種ば蒔いたけんですたいと。さぁそこでお互いが、黒い豆が欲しいならば、黒い種を蒔かなきゃいけません。本当なおかげが頂きたいなら、本当な信心せにゃいけませんと言う事が分かろうがと言うて話した事でしたね。本当なおかげが頂きたいならば、本当な信心せにゃ出来ん。本当の種を蒔かずしておいて、おかげだけは、ほんなもんば頂きたい。今日もある先生が見えて、その事を言われるんですね。
真の道に居りながら、真の道を踏まぬから、真の事に成って来ないのだと。是が、本当の信心ぞと教えられても、ほんならその本当の信心を目指さずして、唯おかげだけを目指しておる所に、何時まで経っても、唯おかげだけしか頂けんのだと。おかげだけと言う物は、それこそ影ですから、消えて無くなるのですね。本当な信心、本当な信心の種を蒔くから、本当な種がもう、こういうだから、そう言うおかげを頂いてまいりましたら、もう日々が不思議で不思議で堪らん。
信心してね。みかげのあるを不思議とは言うまじきものぞ、祈りてみかげの無い時は、是ぞ不思議なる事ぞと仰る。ね。そう教えて下さるんですけれどもです。矢張り私共がです、日々もう本当に、不思議と思わなければおられない事の連続の中におると言う事はね。私がね。黒い種を蒔けば黒い実が実るんだ。その黒い種を蒔かせて頂いて、黒い実りを私が収穫しておると言う事が有難いと言う事なんです。神様というのは信心も出来んのに、此の様なおかげを頂いてと言う事になる。
どうも親先生の仰る事は、ちょっとオーバーだと。私が椛目の時代にね、向かいにあの前のほうが、ずうっともう長い、あれは二反かそんくらいありますか。宮崎さん所の田んぼがある。そこを、ずうっとこう、田植えばしちゃって下さると、もうそん中に二三人だけ、とても名人な方がある。椛目の宮崎さんの、あの今のお婆ちゃんなんか、それはもう見事早い。もうそれを二階から見よるなら、まるきり運動会見よるごたる。
もうとにかく久保山先生、ちょいと見てんの、もうまるきり走って行き御座るごたるばいち言うたら、もう親先生がオーバーだとこう言うわけです。走って行きござるとは言いよらんもん。走って下りよるごとあると言いよるとじゃね。だから私のいうことは、そのオーバーだと言うけども、実を言うたらまぁだまぁだ足りんのです、私は。神様が私が頂いておる実感を、もうそれこそ私がお話をしたり、ほんならみなさんが本当だ、そうだと言うけれども。
私に少し抵抗のある人反攻、こうまぁ羨ましがっとる様な人達が聞くとです、大坪さんが、うだごつばっかり言うてと言う風にしか聞こえんだろうと思うです。だからそれはです、例えば本当に自分でも思うのに、私が何時も言うように、少しは一つ本当慢心が出るくらいなおかげを頂きなさいと、私が言う。私は今朝からもそれを話した。私は昔から、弟と妹の自慢をするんです。
家内が又スマちゃんの自慢が始まったと、こう言う。もう私はもう本当にもう、あのそげな話が出たら、もうとにかく妹の自慢と、弟の自慢をするんです。けれども本当なんだから、自慢せにゃおられんのだから。そういう妹を持ち、そういう弟を持っておると言う事は、こげな有り難い事は無いじゃないですか。もう無条件でです、手放しで褒められる。ほんなら私共がです、本当に手放しで頂いておるおかげが、話せれる程氏のおかげを受けると言う事が有難いでしょうが。
だから、人が見たら、それは、ちっとその、どうか可笑しく感じておる人が、ただ、自慢たらしく聞こえるだけであって、本当に私の事を知っておる人ならば、成程あなた方ん妹さんな、ほんなこて、素晴らしいと言いなさる。本当親先生はお観音様のごたる人ち言うが、本当に池尻さんこそ、お観音様のごたる人ですばいと、皆が言うてくれるです。と云う程しの、妹を持っておると言う事は、私は有難い。ね。信心でもそうです。もう本当に毎日毎日、頂いておるおかげをです。
例えば是ば十二分に、おかげおかげと言うても、皆んなが分かるまいけれども。私は感じておる程しのおかげと言う事を、皆さんに聞いて貰うたら、なら皆さんでも分からんかも知れません。今日のお話を頂いて、吉井の波多野さんです。吉井の熊谷さんのお話は、ちっとオーバーのごたると思いよったばってん。今日の親先生の御理解頂きよったら、あれがほんなこつですねち。熊谷さんが確かに頂いてあるおかげを話なさる時には、あげな風にして話さにゃおられまいと言うて、今日波多野さん言われました。
本当に頂いて居る物をです。お話をする時には、そう言わにゃおられんのです。ね。だから、言うならば今日はあの、今朝からも慢心と言う事に付いてでしたけれどもね。自分の心の中にです。慢心を感じていなかったら、どんなにそれは、一を十に話しても実際のおかげは、まぁだまぁだまぁだ氷山の一角です、本当はね。例えば色んな芸道とか、色んな事に修行をしたり、その言わば道と名の付く物の精進をしておる人達の、名人達人と言われる人達に、色んな事を聞きます。
もう名人と言われ、達人と言われる方達ですから。素晴らしい、その境地とでも申しますかね。それを聞かせて貰うと、いいえこの道ばかりは、限りがありませんと言うです。幾ら稽古をしても、幾ら稽古をしても、限りが無いと言うのです。信心だって同じ事。私共がそうです。何時も生神金光大神に、向きをそういう風に、そういう、姿勢をとっておる何時も。だからどういう、おかげを頂いても、ほんなら是で良いとは、一つも思っていない。ね。
ですから私は心の中にです。本当に信心も出来んのに、是ほどしのおかげを頂いてと思うておるから、信心が次の信心の段階を目指して精進させて頂いておる。そういう心で、どんなに是は慢心と思われるような話をさせて頂いても、それは慢心ではない。人は慢心というかも知れんけれども。神は慢心とは思わんという御教えを、昨日頂いたです。ね。自分の心がです。もうとにかくこの道ばかりは限りが無いと思うておる。
だからその道を、限りなく精進させて頂こうと思うておる。中々その謙虚な人はね、もう本当に慎み深くお話をされます。いいえもういいえと言うて、成程良いですけれどもそれでは神様から頂いたおかげを、現す事が出来んね。頂いたおかげを本当に現す所の、もう話さなければおられない程しのおかげを、頂かせて頂く事の為にです。今日末永先生じゃないけれどもね。七年振りに初めて我情我欲をする、又我情我欲の願いと言う物がどんなに詰らない物か、馬鹿らしい事は無いと言う事を翻然として分かった。
そこから成程、わが身は神徳の中に生かされておる喜びも、愈々分かってくるだろう。真に道も段々一歩一歩踏み締めて、立って行く事が出来るだろう。そこからです五つの願いであり、合楽教会大発展と言う事になって参ります。この五つの願いと言う事は、決して我情我欲じゃないです。ね。どうぞ体の丈夫を願う事も、家庭の円満を願う事も、子孫繁盛家繁盛を愈々、願わせて頂く事も本当の意味においての御用が出来ます様にと言うて願う事も、神願成就の事の為のお役の端にも付こうて下さいと願う事も。
是は決して我情我欲じゃない。そういう我情我欲を離した人がね。言うならばどうでも良い主義と言うのが生れて来て、そこから又願わなければ居られないのが、この五つの願いであり合楽教会第発展なんです。なぜてそれがそのまま神様の願いなのだからですね。教会が、合楽だけが発展さえすれば良いと言うのじゃないでしょう。合楽の発展は世界真の平和、世界に和賀心時代を敷くと言う事に繋がる程しの事なのです。
その為には私が、どうでも健康で無からなければならない。家庭が円満で無からなければならない。愈々子孫繁盛の道を、私共が対処させて貰うて、おかげを頂かなければ、所謂それは神様の願いなのだからです。私共の願いとして、どうぞ今日も健康のおかげを下さい。今日も無事災難を逃れます様に、私と言う物で言うなら、我情我欲で願うと言う事は、是はおかげは受けても、それはあの世までも持って行ける様な願いにもならなければ、おかげにも成就しないと言う事です。ね。
皆さん、あの五つの願いと言うのは、そんなに素晴らしい事なんですよね。けれどもほんなら、段々稽古をさせて頂いて、その五つの願いを願わせて頂いておる内にです。自分の我情我欲の為に、それが願われておるとするならば、それは矢張りちった可笑しい。それは自分にまだまだ、我情我欲と言うものがある証拠だと、悟らせて貰うて、ね。まぁそれを願いながら、分らせて頂きながら、一つ、翻然として我情我欲を言う事が、こんなにも馬鹿らしい事だと分かる信心を、一つ身に着けて頂きたいと思う。ね。
本当な信心をさせてもらやー本当な物が、絶対に実るんです。それは黒豆を蒔けば黒豆が、矢張り生えて来る様な物ですね。和賀心、和賀心と言うけれども、ほんなら和賀心になろう、和賀心になろうと言うて、和賀心になれるのじゃないね。先ずはほんなら、打ち耕かせねばならない、肥料も施しておかなければならない。そこにほんなら黒い豆なら黒い豆が蒔かれる。そこから生えて来る。
我情我欲、はぁ豆が欲しい黒豆が欲しいと言うとるだけでは出来ん。そこで先ずは柔らかい、私にならせて頂く事に努めなければならないと言う事ね。本気で我情我欲を取る事に成って来るとですね。第一心がもうまるやいで来る、和らいで来るね。こうしたいと思うておる。所が自分の思う様にならんと、もう心が穏やかではない。それはこうしたいと言う事を思いますよ。けれども我情我欲の無い心で、思うておるのですからね。
ですからそれがほんなら、右になっても左になっても、それこそどうでも良いという心がある訳です。だからそうりゃしもうたねと言う事を言わんで済むのです、ね。所謂柔らかい心にならせて頂かねば、是にどんなにたぎる様な熱が、是自体にあってもです。それに移って行かんのです。和らいだ所謂真綿の様な心にならなければ。私はもう本当にこの真綿のチョッキは、思うんですけど、もう着た途端からぽかぽかして来るですね、真綿ち言うのは。ね。
と言う程しにこの体の体温を、この吸収出来れる内容を持ってる訳なんです。それがほんなら、私共の和らいだ心と言う物がです。天地の親神様のほんならおかげを吸収する事が出来ると言う事が分かりますですね。固いかたくな心ね。冷たい心氷のごたる。是ではね。氷が解けるまでがひと辛抱かかる。ね。そん為には先ず一つ本気で我情我欲をね。腹を立てちゃ馬鹿らしかと言うさまな事を、此処で盛んに何時も申しますですね。けれども今日私は、末永先生の話を聞かせて貰よって。
素晴らしい表現であり素晴らしい事を分かったもんだと思うております。もうこう言う心が分かったら、おかげ間近です、もう間違いないですね。我情我欲を言う程、馬鹿らしい事は無いと悟った。そこでそれを境に、我情我欲を言わんで済む、自由無碍な心がある訳です。ほんならその自由無碍な心で、どうでも良いけんで、じっとしときゃ、朝はゆっくり寝てから、もう我良かごとしときゃ良かと云う事じゃない。
そこに修行があるね。所謂合楽では成り行きを、愈々大事にさせて頂くと言う様な修行に取り組ませて頂いてです。そして神様の願いであると思われる、五つの願いと言う様な願いに焦点を置いての修行になって来る訳ですね。是なら神様が聞いて下さらない筈は無い。健康の上にだってね。所謂五つの願いに現れておる、あの願いが成就すると言う事は、神様の願いが成就すると言う事なのですからね。
是は、本気で願わなければならない。と同時にそれは、ただ自分の我情我欲で願うのではないと言う所ね。不純な物がない、そこの不純な物を、いわば翻然として取り除かせて頂くと言う。それが信心の悟りと言うのだと、私は思うです。ね。七年間も、一生懸命修行させて頂いて、ようやく七年振りに分かった。そんなら七年間という間、今までんとは、もう無駄じゃったごとあるけれども、その無駄であった様な事が、その分かった所から、七年間の修行が全部生きて来る。
そう言う事のおかげで、是が分かったのですから。ね。私共が一生、例えば我情我欲の為に、如何に素晴らしい信心をさせて頂いても、それはね。悪人でも受けられるおかげなのですから。それは長続きはせん。あの世にまでは持って行かれない。あの世にまでも持って行ける様なおかげというたら、我情我欲を離れて、言わばどうでも良いと言う心の状態が生れて、それからやむにやまれん思いが、またおのずと起こって来て、神様の願いの成就の事の為に、私共が言わば願わせて頂くという。
その為の修行精進と言う事に成って来る時に、愈々本当な信心と意う事になるのだと、こう思う。そこにあれもおかげであった、是もお蔭であったと言う事が分かる。勿論是からは、愈々おかげである事も分かるね。こういう言わば垢抜けしたですかね、一つの心の悟りを開かせて貰うてね。一つ皆さん、本当なおかげを頂きたいですね。ね。黒い豆を蒔きゃ黒い豆が、必ず実るのです。
それを黒い豆を蒔かずにね、赤い豆が欲しいなんて言うとったって、生まれて来よう筈がない。本当の信心をするから、本当なおかげが現れるのです。ほんなら本当の信心とは、先ず我情我欲を離れて、ね。そんなら皆さんが、ほんなら今申します様に、あぁ有りたいこう有りたいと言う思いはありますよね。有りますけれども、それが神様の願いに繋がっておる様な願いでなからなければならん。
又は我情があっても不純が、それがあってもです。お取次ぎを頂いたら、もうそれから先は、お取次ぎを願う先生に、金光大神に任せなければいけない。そこで我情が祓われる。ね。ほんならそれは我情我欲であっても良い、お願いをするね。お願いをしたら、それをまた持って帰って、我情我欲を思い続ける様な事ではいけん。もうお願いをしたら、お取次ぎを頂いたら、お任せをすると言う心の状態。
この辺の所は、お互いは段々出来て来ておられると思うのですけれども。今日私は、末永先生の信心に一つ、お互いがあやからせて頂いてです。もう我情我欲ほど、馬鹿らしい事はないと言うね。それこそ腹を立てる程馬鹿らしい事はない。こげな損な事はないと言う以上の素晴らしい事なんですから。所謂本当の信心を目指させて頂く為に、どうでもここん所を頂きたいと思うですね。
どうぞ。